2009年06月07日

「本日の更新」

 まだ、祝詞の本文には、入っていない。
 
 量的には、小連載並みかもしれない。

 注意書きしておくと、「はらい」「はらえ」の区別を細かくはしていない。どちらも私の中では、「おはらい」と一つに考えていることに由来する。読み物として、読んでいただきたい由縁もこういうところにある。

 古伝の引用ヵ所と後釈本文の内容の重複があるので、読んでいて混乱するかもしれない。

 考の引用で然りといっていることが、後釈で間違いだとされたり、今読んでいるのは、どっちの箇所だと、これもまた読んでいて、分からなくなるかも…。

 今回、大はらいの儀式のさまの説明などが、メインだが、アバウトな形ながらも、なにがしかが、伝わればと思う。結局、古代の在り方は不明であるのだが…。

 「某」「云々」を多用しているが、それぞれ「なにがし」「うんぬん」と読む。

 本文のヵ所まで、もう少し前置きの話は続く。本文に入ると、多少は、おもしろくなってくると思う。


 何か言い訳がましくなった。
  
posted by 青田猫三齋 at 18:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「のりと編」二

※「大はらい」(古伝三十)

 諸国の大はらいのさまを記録したものはないが、朝廷で行われる式(のり)を参考に知るとよい。

 「神祇令」に、「六月、十二月の晦日、大はらい。東西の文部(ふみべ)が、はらいの太刀をお供えし、はらいの詞を読み、終わって、百官男女がはらいの場所に集まり、中臣は、はらいの詞を宣(の)り、ト部(うらべ)がはらいを為す。」

 (文部(グループの名)が読むはらい詞は、義解(本の名)に、「文部が漢音に読む」とあり、この詞も式の大はらい詞の末に載せられている。

 先生は、考に記す。「これ(漢音に読み上げたという文)は、文部が遠祖の時から、伝え来た文であるとは思われない。はるか後のもので、中国、朝鮮半島などの巫祝の唱える詞によって作られたものではあるまいか。

 また、「ト部がはらいを為す」というのは、上代のことではない。後に定められたものであろう。このことは、大はらい詞の最後の文に論がある。」

 百官男女とあるのは、男女の官人の意味で、官人とその妻や娘という意味ではない。

 「四時祭式」に、「六月晦日の大はらい(十二月これになずらう)…。

 晦日に、親王以下百官が朱雀門に集まり、ト部がのりとを読む」とある。

 (ト部が読むとあるのは、後の人の改めたものか。はらいの詞は、もともと中臣がよむものである。式文にこうした記述はありえない。)

 「太政官式」に「六月、十二月の晦日。宮城の南の路で、大はらいを行う。

 大臣以下、五位以上、朱雀門に就(つ)く。弁史(職の名?)各一人、中務式部(グループ名)、兵部(〃)等の省を率いて、見参の人数を申し(報告し)、

 百官男女ことごとく会し、これをはらう。

 臨時の大はらいもまた同じ。」とある。

 なお、朱雀門前の大はらいの儀式(のり)は、「貞観儀式」にも記述があり、その中に、「はらいの儀(さま)はただ…(中略)立ち定まる神祇官が切り麻(ぬさ)を分かち、終わって、中臣座に就いて祝詞を読む。

 「聞こし食(め)せと」の箇所で、トネ(諸司の六位以下の者)みな称唯?する。

 はらい終えて、大麻(おおぬさ)を行う。次に五位已上の切麻(きりぬさ)を行い、解散となる。」とあるのみである。

 この中に、大麻(おおぬさ)、切麻(きりぬさ)を行うという意味の記述があるが、古代のはらいのさまとは思われない。後の世の儀式に相違ないであろう。

 令の時、既に文部が漢文の祝詞を読むこと、ト部のはらいすることなどあり、いにしえのものとは思われない儀式(のり)などが雑(ま)ざっているので、世々に移り変わったほどを、思いはかるとよい。

 中昔(中世?)以降、大体、はらいは、陰陽家の仕事のようになった。個人的なはらいも同様。

 この大はらいの次第に衰えたことは、「小右記」に「天元五年六月二十九日、今日、大はらいの場所に、公卿一人も参らず。右少弁惟成を代理と為し、これを行わせる。内侍たちは、障をいい、おはらいに向かわず。女史を内侍代理と為す。」 とあることで知られる。

 天元は、某天皇の時代で、世の人ひたすら仏事(ほとけわざ)に心を寄せて、神事をなおざりに思い、はらいは、わが身のはらいであることを忘れている。
 
 あなかしこ、あなかしこ。(ああ、畏れ多い、もったいない。)

 このように参らぬことを咎めることも聞こえないのは、これまた、神事をなおざりに思うからであろう。

 ※現代、儀式は復興しているらしい。

※「大ぬさ」( 〃 )

 「大(おお)」は、大はらいの大と同じく、広く国中から取るためにいう。

 「ぬさ」は、神に手向ける物もいい、はらいに出だす物もこういう。

 名の意味は、祈(ねぎ)布佐(ふさ)である。事を乞い祈(願)(ね)ぐということで、出すのである。

 はらい「ぬさ」も「その罪けがれを除き清めたまえ」と(ね)ぐ意から、出だすもので、神にお供えして祈(ね)ぐと、意味は同じである。

 「ふさ」は、麻のことである。

 神に手向ける物、はらいに出す物は、種々あるが、特に麻を名に負わせているのは、あるが中にも旨とする一種にだからである。

 ここにいう「ぬさ」は、はらいに使う物のことで、「千座置戸」のヵ所に詳しいので、考え合わせていにしえの「大ぬさ」の意を知るとよい。

 (大はらい、大ぬさというものは、ただ名のみあり、古代のとはその趣きいたく変わり、もとの意は失(う)せている。

 貞観儀式の大はらいのヵ所にある「切りぬさを分かつ」「大ぬさを行う」という後の儀式のさまも文献になく、どう行われたか分からない。

 ともかく、古代に大ぬさといったものは、中昔から宣長の時代までのものとは、その趣き異なる。

 神事に榊の枝に麻と紙とを垂らした物も、「ぬさ」といい、紙は、木綿の代わりである。

 また、神社から授けるおはらい大麻(ぬさ)という物は、木綿麻を串に挟(はさ)んだ 形で、これも紙を代わりにして用いられている。


 考にいう。
 臨時の大はらいは、建礼門で行われたことが、「三代実録」の記述で分かる。

 後釈。

 貞観儀式に、大はらいの儀式の記述。

 「その日、午四刻。神祇官・某(なにがし)・某の三司が延政門の外に集まる。

 百官男女は、ことごとくおはらいの場所に集まる。

 これより先に(準備として、)神祇官が朱雀門の前の路の南側におはらいに使う物を陳(なら)べる。(六ヶ所に分けて、置く。馬は、北を向かせる。)

 朱雀門、東西の舎に、位ごとに諸司の席を設ける。

 某たちは、朱雀門の壇上の東側(向かって右)の第一の間を某たち、第二の間を某たちの階(席)とする。

 女官たちの席は、壇上の西の間にある。間仕切りは、斑幕で隔てられている。

 某たちの席は、東の舎。

 某たちは、西の舎。

 祝詞(をあげる人)は、路の南西。(おはらいに使う物を六ヶ所に分けて置いたその隣のイメージ。)

 席の前に軾布を置く。

 席の割り当てのないあとの役人たちは、東の舎の東に立つ。

 (中略)

 東舎の人たちが、席を立ち、降りて、東舎の南に立つ。

 西舎の人たちが、(同様に)降りて、西舎の南に立つ。

 立ち定まり、神祇官が、切り麻(ぬさ)を分かつ。(位ごとに各担当で行う。)終わって、中臣が、(席の所に)行って、席に就き、祝詞を読む。

 祝詞の「聞こし召せ」のヵ所では、席のない人たちが、(自らの口を手で覆いながら?)「おお」と答える。

 はらい終わって、次に、大麻(おおぬさ)を行う。

 某たちの切麻を撤する。

 散会となる。

 ※大体のさまを抄訳(迷訳?)した。「切麻を撤する」などのことも、よく分からないが、ご勘弁。専門書に詳しい。

 「祝詞を読む」のは、大はらい祝詞である。

 切ぬさを分かつ、大ぬさを行うなどは、古代からあったものか、後からの行われた儀式のように聞こえる。
 
 元来、おはらいは、その人々から、はらいに使う物は、出させた。令の書かれた時代には既に、文部(ふみべ)が漢文の詞を読んだり、ト部(うらべ)がおはらいをすることなど、ほかにも、古代にない儀式が混ざっていたらしいことが分かる。

 この儀式について、貞観儀式以外の本に、少し違った記述がある。

 「おはらいの馬は六匹」というヵ所、「又、稲四、五束ばかりを積み置く」とある。

 また、「大ぬさを行う」の解釈に、「神祇官以下、これを執(と)り、某以下の席の前にこれを引く。某、某、某諸司の料(しな)は、各異なる。」とある。

 また、「某一人が事を行う。あるいは、納言参着、稀有の例である。」
という記述からすると、その頃は、大臣の参り集まることが絶えていたと思われる。
  
 百官の大はらいも、二季の晦日以外にも、臨時にもあったようである。

 大嘗祭式に「おおよそ大はらいの使いは…」と諸国の使いを遣わすことを挙げ、「京にある諸司、晦日に集って大はらいをすること、二季の儀のごとし」とある。

 そのほか、神事の折、内裏にけがれ事があって、大はらいを行われたことなども古書にある。

 考に、臨時の大はらいは建礼門で行われたとあるは、三代実録の「某年某月某日、某の前、人死あり、建礼門の前で大はらいする。」とあるヵ所をいっている。これは、内裏のけがれであるために、特別にこの門の前で行われたものである。

 通常、臨時の大はらいも朱雀門で行われたことは、某の本などからも知られる。

 考にいう。
 この祝詞は、(本来、何と呼ぶべきか。)式では「大はらいの詞(ことば)」といっている。

 古語拾遺では、「中臣のはらえの詞」。

 某の本では、「中臣の祭文」。

 祝詞は、中臣氏の宣(の)る詞(ことば)だからである。 

 今の世(真淵の時代)の人が、この祝詞のことを「中臣はらい」とのみいうのは、間違い。

 中臣は祝詞を宣(の)り、はらいは、ト(うら)部(べ)(グループ、一族?)が行うもので、「中臣はらい」というと、はらいも中臣の行いのように聞こえてしまう。

 式にあるように「大はらいの詞」というべきである。

 後釈。

 この祝詞は、某令に「中臣はらいの詞を読む」。

 貞観儀式に、「はらいの詞にいわゆる…」とある。

 考にいわれるように「大はらいの詞」と呼ぶべきこと、論ずるまでもない。

 ただし、式にも何にも「大はらいの詞」と続けていう言い方はしていない。

 祝詞式にも、六月晦日の「大はらい」とあり、「詞」の文字はない。巻のはじめに「祝詞」とあげているので、それぞれの祝詞には、ただ「某の祭」とのみ記されている。

 考で、式に「大はらいの詞といわれている」というのは、思い違いである。

 また、この祝詞は、「大はらいの祝詞」ともいう。

 某式、某式にもこれを「祝詞を読む」とある。

 これも、神に申す詞だからである。

 万葉十七の歌に「中臣の太祝詞言(ふとのりこごと)いいはらえ」とある。これは、「太祝詞言」を、中臣が、いいはらえという意味にも釈(と)られるが、「中臣の太祝詞言」をいいはらえといっているのである。

 さて、この祝詞、某記、某記にも「中臣のはらえ詞」とある。

 大神宮年中行事には、「中臣はらえの祭文」とある。

 「祭文」とは、中昔にこうした読み唱える詞の類をすべてそう呼んだらしい。

 「中臣はらい」とのみいわれたのは、いわれて久しく、世の人のいたく誤解しているところである。

 考に、はらいは、ト部のする行いで、中臣の行うことではないとのみいわれているのは、なお説明が足らない。世の人の「中臣はらい」とのみいい、この詞=はらいと思っているのは、誤りで、そのことは、以下にいう。

 ※古伝「中臣」を説明したヵ所。

 万葉十七に、読みが「ナカトミ」と書かれている。

 名の意味は、中執臣(なかとりおみ)である。

 某という記録に云々とあるように、祖アメノコヤネから、神と君とのみ中を執(と)り持って申す仕事(つかさ)であったことに由来する。

 つづく
posted by 青田猫三齋 at 17:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 本居宣長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月09日

「本日の更新」

 久々の更新である。
 
 本居宣長の「大祓詞後釈」の自分訳である。大祓詞(おおはらえことば)は、いわゆる祝詞(のりと)である。祝詞は、後々出てくるが、神職にある人が、神前で、神に申し上げる言葉である。超級のハナシコトバといえるであろうか。

 このブログでは、宗教的ではなく、文学的に読みたい。いずれも専門ではないが、読者としての立場で読むのである。「般若心経」が宗教を離れたところでも、親しまれているような感じである。

 この祝詞、正しい丹田呼吸で、声に出して読むと健康にいいのではと思ったりしている。人には、当然聞かせられたものではないが、正座をして読み上げると、読み終わって、平伏したい気分になる。

 中身は、抄訳という、ダイジェスト的な内容で書き進めたい。更新のペースは、まだ分からないが、速くは進まないような気はしている。

 「のりなが」あとがきで「いにしえのやまと心」の歌を引用した。

 桜の咲く季節、まだ朝の早い時間、散歩か何かに出て、陽光の差し込む中に映え立つ桜の樹々を眺め、早春のひんやりとした外気とともに桜のにおいを吸い込み、安堵を覚える。桜のたたずまいは、浮世のものとは、思えないほど、美しくおごそかである。

 「いにしえの心」はそういうイメージであると記した。その理解を深めたい思いもある。
posted by 青田猫三齋 at 16:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「のりなが のりと編」

 この祝詞(大はらい詞)は、数ある祝詞(のりと)の中でも、尊く古くめでたい一文である。世の人みなから、尊み、重んじ、あがめられてきた。そのため、注釈の本も多く書かれた。しかし、(残念ながら、)いずれも、古代の行い、心、言葉ということを知らず、みだりに説いたものばかりで、ひとつも的を得た本はなかった。
 
 ここに、わが学んだ先生(賀茂真淵)は、古代のことを深く考え、それまでの考えを改め、古代のことを学びはじめ、みなをいざなった。そうして、世の物を学ぶ人、やや後の人たちは、これまでの考え方では、古代のことは、分からないということをさとりはじめた。
 
 先生は、「祝詞考」で、もろもろの祝詞の注釈を書かれた。その中にこの「大はらい詞」の考えもある。これこそ、古代の意にかなう注釈である。しかし、なお、はじめて、いにしえ学びの道を開かれた訳で、考えの及ばないところ、誤ったところがないではない。そのため、その本をもとに、私の考えを後釈として、記すことにした。

 これは、先生の考えを継ぎ、広めるものである。そもそも、師である人の誤りを挙げることは、いとも畏れ多く、弁解する余地もない。しかし、今いわないと、世の人の長く誤りを伝え、さとることなく、なお、いにしえごころの明らかにならないことのうれたさに、どうしてもいっておきたかった。
 
 考にいう。
 はらいとは、古事記に@「いざないの君」が、死人(しびと)の国に行って、けがれたので、お清めをしようと、筑紫の橘の水辺で、身に着けた物をすべて脱ぎ棄てたことをいう。けがれたものをはらいやる意味である。

 次に、A海水に浸かり、身をそそいだ。これを身(み)そぎという。身のけがれを洗い、濯(そそ)ぐ意味である。この二つがはらい、みそぎのもとである。

 また、B「猛進する男」が、たちのわるいことひどいので、あがめ物を厳しく責め立て、おはらいに供える物として、出させられ、追放されたが、いざないの君の自ら棄てたことも、他から責めて出させたのも、意味は等しく、この二人の神のことを合わせて、はらい、みそぎの基準として、人の代に至っても行われているのである。

 いざないの君は、はらい、みそぎをしたことで、貴い子たちを生み、猛進する男は、おはらいに使う物を出し、身の追放されて後、清き心になった。この行い(はらい、みそぎ)の大きい功のあることが知られる。

 人の代となっても、その三つのことをまとめてはらいという。

 また、本によっては、御(み)濯(そ)ぎと書かれている。天皇の身のことなので、大御身濯(おおみみそそ)ぎという意味である。出雲風土記に、御身沐浴(みみそそぎ)とあることを考えるとよく分かる。

 後釈。
 考にいわれていることは、すべて、はらいというものの起源である。けがれた物を棄てる、はらいに供える物を出す、これらをはらいといい、身をそそぐのをみそぎといい、後にまとめてはらいといったという。しかし、はらいという名称は、意味が広く、もともとかの三つ(@〜B)のこともはらいといった。身をそそぐことも、けがれをはらい棄てる行いだからである。 

 はらい、みそぎの私のいいたいことは、古伝六と九に詳しくいった。

○古伝六。「みそぎはらい」のヵ所。
 「みそぎ」は、身そそぎである。(このヵ所、「いざないの君が、潜(もぐ)って濯(そそ)ぐ」場面に文章は続く。紀に、「わが身の濁穢(けがれ)をそそぎ去(は)らう」、「身の所汚(けがれ)をそそぐ」、「穢悪(けがれ)を濯(そそ)ぎ除(はら)いたい」とある。万葉集の歌に「潔身(みそぎ)」、「身祓(みそぎ)」とある。今も除服などに、海川辺に出て、水浴びなどすることは、みそぎの心ばえである。

 「はらい」は、払いである。紀に、払い濯(そそぐとも書かれている。滌去(そそぎはらう)の去の字、濯除(そそぎはらう)の除の字などもその意味。また、「洗い」とも言葉は共通する。(今、俗に物を買った値を出すことを払う、払いをするともいうのは、祓除(はらい)の意味に当たる。また、これを済ますというのも、清令(すま)すの意味で、祓いの意味に通う。

 さて、みそぎもはらいも体言だが、はらいはもとより、みそぎも万葉三に「空の国の川原に出で立ち潔身(みそ)いでいた」、「菅の根を取り、解除(はら)っていた」、「行く水に潔(みそ)いでいた」(浜松中納言の物語に「恋しさをみそげど神のうけねばや、心のうちのすずしげもなく」ともある)。紀に、「祓い禊(みそ)が令(し)む」とある。

 みそぎは、必ず水辺に出てすることに限っていった。古書みなそうである。禊の字もその意味である。はらいは、水辺やそうでない場所で行うのも広くいう。(朱雀門の前で行う大はらい、また、人に負わせるはらいなどは、みそぎとはいわない。逆に、水辺の禊(みそぎ)をはらいというのは、常である。

 祓と書いて、「はらい」「はらえ」と読むが、はらいは、自らする。はらえは、はらわ(令)せの意味で、人に令(せ)しむることをいう。
(後は、古伝参照)

 古伝九。
 千座置戸を負わせるとは、解除(はらい)を科(おわ)せることをいう。罪を犯した人に科(おわ)せ、物(はらいに供える物)を出しあがなわせるのである。
 罪犯しをはらうのも、けがれを清めるのも全く同じことである。けがれ=罪、罪=けがれということは、アワギ原、神功の国の大はらいのヵ所にいった。

 罪、けがれの軽重に従い、はらいを行うのは、上の代の定めである。後に外国の制度にならうようになって、廃れたが、神事には、この定めが用いられ、大、上、中、下それぞれのはらいで、品々の種類や数が異なる。

 そのはらいに出させることの意味は、二つある。@そのはらいに用いる色々のものを科(おわ)せ、出させる。紀に、祓具(はらえつもの)と書かれた具(道具)の字から考えるとよい。
 
 雄略巻に、「ハタネ(人の名)罪あり。馬八匹、太刀八口で、罪過(つみ)を祓除(はら)う」とある。(馬を用いるのは、神たちが、その祓いを速くにお聞き受けてほしいこと、太刀は、罪穢を断絶(た)つということを意味するものか。このほか、用いる種々の物も、その名、又はその形、その物の用(はたらき)などについて、意味を取ったことが多いであろう。)

 Aかのアワギ原のみそぎの時、身に着けた物をすべて投げ棄てたように、罪犯しある者は、身がけがれているので、その身に所有している物もみなけがれているとして払い棄(や)る意味から出すのである。後の世まで、祓いに用いる種々の物をは終(はて)にみな水に流し却(や)った。

 異国の贖罪と同じ意味ではない。

「六月晦大祓 十二月はこれに准(なずら)う」
 考にいう。
 大はらいの儀式の、上の代に見えるのは、「オキナガの地の(満ち)足る」姫のヵ所。「筑紫の国々で麻と紙を垂らした榊の枝を村々家々から出させ、某、某、云々の罪の類をなした者を求め、国中ことごとくのおはらい(国のおはらい)を行い…」とある、これである。神代から伝わり、初国を治めた時代から、その後も次々と行われてきた。

 後に、天武天皇、文武天皇のところに記述がある。大宝元年に六月、十二月の大はらい。ともかく、年々絶えず、行われた。

 後釈。
 はらいでも、殊に大はらいというのは、一人のはらいではなく、広く諸人(もろびと)のはらいであるために、「大」(おお)といった。

 大はらいの私のいいたいことは、古伝三十神功皇后(オキナガ足る姫)のヵ所に詳しくいった。

 「古語捨遺」の神武天皇のところに「某の孫某に、空の国の罪、地面の国の罪をはらえ令(し)む」とある。考にいわれるように、かの時代にもこのことは、あったのである。

 考に、諸国のはらいと朝廷のはらいとの区別をいわず、一つにいわれているのは、詳しい記述ではない。同じ大はらいでも、諸国に令(みことのり)してさせるのと、朝廷のものは別である。先に考にいわれた天武天皇、文武天皇の時代に記されたのは、みな諸国の大はらいである。六月、十二月のは、朝廷の百官のはらいで、こちらは諸国のものではない。この二季の大はらい、いずれの時代からはじまったものか、定かではない。

 つづく
posted by 青田猫三齋 at 16:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 本居宣長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月03日

「本日の更新」

「のりなが」に続き、「生きている『生きているヒロシマ』」も無事終えることができた。

 ご愛読?ありがとうございました。

 何かほっとしたの一言。

 抜粋ヵ所が多いので、よく知らないが、著作権に引っかかるかも分からない。創作性が認められれば、それは、クリアだとは思うが、…。

 記し忘れた。装丁が、模様のある赤黒い下地だが、これは、いわゆる原爆野、焦土とやけどの跡を表しているようだと、読み進んでいるうちに思ったので、追加で記しておく。

 次は、また、何かは書くことにはなるだろうが、ぼちぼち考えていく。  
posted by 青田猫三齋 at 14:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小連載「生きている『生きているヒロシマ』最終回

「被爆者同士の結婚 小谷夫妻の場合」

 海上で作業をする男性、床屋で髪を切ってもらう赤ちゃん、家族の写真。

 当時「中学生だった小谷」「氏は、」「爆心地から一・五キロメートル」地点で被爆。

 「熱線の直接照射を受け」、「顔、手、足などにやけど」を負った。

 「家業の牡蠣養殖業を継い」だ。

 「須磨子さんは、」「家屋疎開の現場へ向」かう途中「自転車のパンクした」「一・五キロ」「地」点で、「被爆した。」

 「氏は」「八回」、「須磨子さんは」「七回の植皮手術を受けた。」

 「入院」期間が「三ヶ月ほど」重なった。

 「氏が」「退院」の「近づいたある日」、「外へ涼みに行きませんか」「と誘」いプロポーズ。

 「新婚旅行には行かなかった。」

 「心配した」が、「赤ちゃん」は「順調」に「育」った。

 「昼寝をしている浩美ちゃんのそばで、編みものを」する「須磨子さん」は、「見るからに
幸福そうである。」

 「残酷な言い方」「かもしれない」が、「いわば、おあいこ」の「結婚」だった。

 「若い女性の被爆者を謙虚に、慎重にさせるものは」「祝福された心と心の結びつきを」「肉体の不条理」が、「引き裂くかもしれない」ことへの「惧(おそ)れ」だった。

 「被爆以来十三年間、」「小窓のある自分の部屋に閉じこもったまま」「暮らす被爆者がいた。それは若い女性であるらしかったが、」「被爆者団体の指導者ですら」「名前も年齢も調べることができ」ないで、仮りに『窓の人』と呼」ばれた。

 「そういう」「傾向は、」「多かれ少なかれ、すべての被爆者が持ってい」た。

 「この十三年間、言うに言われぬ苦しさを嘗めてきた」とは、「被爆者」がよく口にする言葉」であった。

 「原爆病院のある女性の入院患者は」「原爆で受けた傷やから、以心伝心、みんなわかりよるね。それでみんなおんなじ気持で、みんななごやかやね」と言っていた」。

 「ひとりの男とひとりの女の間に、相会う以前にすでに共通の広場が用意されているということは、仇やおろそか」にできない。

 「夫婦の間がうまくいくかいかないかは、結局、お互いの愛情と理解がぎりぎりの結着条件になる。」

 「その意味でも、小谷氏との被爆者同士の結婚に踏みきった須磨子さんは、賢明だったとぼくには思える」。と土門は記す。

 土門の問いに、「須磨子さん」は、「幸福です」と答えた。

 ここまでが、写真集「ヒロシマ」の記録である。

 「十年」後に土門は「広島」を訪れた。

 「広島の街」は「目覚しい」までに「復興」していた。

 「放射能と熱線と爆風という」「三本の爪」に「二十数万、ないしは三十万の市民が即死もしくは即死にちかい激しさで殺され、即死をまぬがれた数万の市民は原爆症またはその後遺症という名の爪痕で苦しむこと」になり、「それは」「二十三年」経っても、「人間の尊厳をむしばみつづけて」いた。

 「十年ぶりの」「報告」を「憎悪と失意の日日 ヒロシマはつづいている」として綴った。

『病理学標本』

 「ここに示した標本は、」「一例を除いて、すべて原爆病院で」亡くなった「被爆者のもので」、「いわば恨み多い形見でもある。」

 「全身の骸骨は」「研究の一助にもと生前篤信な仏教徒だったある死者の遺言によってつくられた」。
 
 「内科系の患者は」「放射能の」「爪が」「生命をむしばんでい」ても、「病臥する様子は普通の患者と変わらない。」

 「標本を撮影することは」、不「本意」であったが、「万やむを得なかった。」

 「頻繁な輸血」に「黒変し」た内臓「などは、」土門の「心胆を寒からしめるのに充分だった。」

『わたしの目をかえせ』

 「福地トメ子さんは二十七歳のとき広島駅で被爆」。

 「爆音のする空の方、飛行機をさがし求めているとき、青白い光がピカッと光った。」

 「それが」「ものを見た最後であった。」

 「こどもたちが親孝行で利口であればあるほど顔を見たいが、見ることができない。」

 「長女の嫁入姿」を「見ること」も。

 「福地さんは思い出したように愛児の頭をなで」た。

 「マッサージを習」い、「生活の助けとしている。」

 写真を見ると、「愛児」といっても、中学か高校生くらいである。居間で、旦那さん、お子さんたちと一緒の写真がある。

「満二十二歳の娘たち」
 「昭和二十年八月六日」「の時点において、広島市内に何人の妊婦がいたかはわからない。」

 「母体」とともに「即死した胎児は圧倒的に多かったはずである」が、「即死をまぬがれ」ても、「小頭症」の「不幸を背負うこととなった」「青年」や「娘」たちがいる。

 「二十人」ほど「原爆症として認定され」ているが、その「ほとんど」は、終戦の翌年の一月か、二月に生まれている。

 「発育も遅く、知能も低い。」背丈も「小学生二年生か三年生ぐらい」である。

『大野寮のこどもたち』
 「広島県立の精神薄弱者援護施設大野寮には三人の小頭症のこどもたちがいる。」

 「生活指導、職業指導の施設」だが、「三人の」「将来については担当指導員は首をかしげる。」

 「こどもたちは、大野寮にいるかぎりは明るい。」

 「リハビリテーションを信じて、それぞれに夢をいだいている。」

 「広島東洋」「ファン」の「賀村君は、」「将来は養鶏場で働」きたいと思っている。

 「女の子たちは広島銘菓の紙箱つくりに共同作業している。」

 入所年限は満三年である。

 作業着の写真、作業や食事中のカットが数葉。

『百合子ちゃん』
 「百合子ちゃんのお母さんは、」「二十六歳のとき、爆心地から一キロ足らずの地点で被爆」。

 「家業の理髪で家族を養っているが、被爆者のすべてがそうであるように、いつも頭痛、めまい、貧血、倦怠感になやまされている。」

 「胎内被爆児百合子ちゃんは長女である。」

 「成人式を迎えたが、原爆小頭症の彼女には桃色の青春期はおとずれない。」

 「知能テスト二歳三ヶ月という結果が出ている。」

 「一日中、テレビを見、ラジオを聞き、カナリヤに餌をやって暮らしている。」
 
 「細い可愛い声で「コンニチハ」というが、何か話をする声は聞いたことがない。」

 ラジオに耳を近づける写真、テレビのスイッチに手をやる写真、戸外で家族と並び写真を撮るが、横を向き、顔を隠す写真。父親との外出する写真がある。

『信子ちゃん』
 「信子ちゃんは、失対事業に出ているお父さんと二人で瀬戸内海の豊島に住んでいる。」

 「お母さんは爆心地から一キロあまりの地点で被爆した。」

 「認定書には」「被爆地 胎内」とあり、「信子ちゃんが広島の子たることを物語」る。

 「井戸でお米もとぐ。」「こぼれたお米を「もったいない、もったいない」といいながら、異常な執心さで一粒一粒拾い集めていた。」

 アイスクリームを食べる写真、料理やお米をといでいる写真。海岸沿いを父親と散歩する写真がある。

「史跡原爆ドーム・原爆スラム・懐中時計」

『史蹟原爆ドーム』

 ドームのある塔を見上げる角度から撮影された写真が一葉。

 「広島の爆心地にたつ広島県産業奨励館の廃墟は、」「人類が最初に原子爆弾の洗礼を受けた」「シンボルであり、」「核戦争から」「世界をまもるための、核廃絶の絶対否定のための、広島市民と日本国民の悲願をあかす記念碑的存在であった。」

 「二十二年の風雪」が「崩壊の危機に瀕せしめ」、「史蹟として指定し、永久保存する方途がはかられた」。

 「募金は」「国民的な共感を呼び、」「目標をはるかに上回っ」た。

 「煉瓦」に「接着剤が注入され、鉄柱のささえが裏打ちされた」。

 「十年前」「撮影中にくずれた瓦礫の中から白骨を拾った」。

 「現在の広島の中では最も」キコクシュウシュウ「たる遺蹟でもある」という。

 『原爆スラム』
 「原爆ドームをはさんで、南に平和公園、北に原爆スラムと呼ばれる」「通りがある。」

 「一〇〇〇世帯、四〇〇〇人」「が生活している。」

 「必ずしも全部が被爆者ではないけれど、三世帯に一人は被爆者がいるといわれる。」

 「掘立小屋の戦後的な不良住宅や不法建築については、」「市も県もお手上げで、」「スラムが存続するかぎり、広島では戦後は終わっていないというほかない。」と記す。

 スラムにある一軒のアップ、スラムの遠景の写真がそれぞれ一葉。

 『懐中時計』
 
 時計は、「爆心地から九〇〇メートルの死骸の間から採集された」。

 「炸裂の瞬間の八時十五分を示すべき時計も秒針も吹き飛んで見当たらない。」

 後に某「氏の所持品だったとわかった。」

 書籍は、懐中時計の写真で終わる。

「あとがき」で土門は記す。「今年も八月六日が間もなくやってくる。この「生きているヒロシマ」を机上に置いて、ぼくは亡くなった方への冥福を祈るとともに、現在、病苦と闘っている被爆者たちの健康を心から祈らずにはいられない。」

 私も八月六日と九日にはこの本のことを思い出したい。

 先に私は、日本のアイデンティティだと騒いで、「古事記伝」の自分訳「のりなが」をブログに書いていた。後半、同時にこの小連載も記していった。日本に生まれた者として、この国の負の?アイデンティティとして頭の片隅にでも置いておくべき内容であったように思う。この本を読み、抜粋の形で文章を書くことは、貴重な体験だった。抜粋ヵ所が一文字だったりしたヵ所もあるが、私が取材に歩いて回った訳ではないので、一文字でも、土門さんの記録の抜粋の方が説得力があるように思い、そうなった。私は、読んで、抜粋したのみである。機会があれば、この本を手に取って読んでみることをお勧めしたいと思う。

「憎悪と失意の日日」の冒頭、土門はこう結ぶ。

「ヒロシマの被爆者たちは叫んでいる。「わたしたちのことを忘れてもらっては困ります。」」。

 おしまい

 



posted by 青田猫三齋 at 14:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月14日

「本日の更新」

 長く間を置くつもりはなかったが、ふた月以上更新できなかった。落ち着かない時期だった。とりあえず、リズムを少し立て直す時間はでき、更新。
 以下は、先日観た映画の感想。

 
 先日、「ポニョ」を観た。今回は素朴な作風らしいので、とりあえず、素朴な感想文を記す。

 宮崎さん版、人魚姫のお話だった。

 内容は、NHKの制作過程を追ったドキュメントで大体知っていた。

 冒頭、はじまりと文字が出たのは、何か嬉しくなった。ワクワク感が高まった。

 はじめの海の場面、全部、動かすという方針どおり、背景がなく、全部動画のような画面だった。藤森さんの文章の「森は生命であふれていた」の言葉を思い出した。長髪のスラリとした紳士が、スポイドで新たな生命を生んでいる。神かと思ったが、魔法という設定かとも思った。シリアスな人かと思ったら、コミカルな感じで、たどたどしい雅びな言葉使いは何か面白かった。

 少年と金魚姫の出会いの場面は、ビンを石で割るところは、笑った。もっと大切に扱うかと思ったが、よく考えると引っ張る力加減とか考えると割るしか救う手段はないだろうとも思った。

 少年の母親はさばさばした感じで男らしかった。運転も荒々しかった。

 家を出た人魚姫を追う父フジモトが川のゴミとかで引っかかって現代の一般的な海川だと思った。

 水魚と命名されているが、水の塊の発想はおもしろいと思った。これはアニミズムだろう。後で出てくるが、柱になった水の塊が、足をくすぐられ上にいたフジモトがボチャと落ちる場面はおかしかった。

 幼稚園とデイサービスセンター?の施設が隣り合わせに建っているのは、対談本「虫眼とアニ眼」にある。実際、本当の幼稚園を作られたという。少年がバケツの中の「姫」に集中しながらも、「何とかさん、何とかさん後でね」と丁寧にいうところはいい子だなあと思った。

 金魚姫は、あっさり父に連れ帰される。水の玉に閉じ込められ、「ハムが食べたい」や「人間になる」などわがままを言い出す。突然、カエルのように手足が生え、驚いた父親が、「戻れ、戻れ」と押さえる込む場面は、素朴な呪文といった感じと、金魚姫の衝動とかもあいまっておかしかった。

 フジモトは、何か発光系の液体を飲んで、押さえ込む。この液体は、長い月日を掛けて醸造したもので、井戸のようなものが一杯になると、何とか期に戻るという。ドアかどこかにはパンゲアと書いてあった。これは、大陸移動前、大陸が一つだった頃の呼び名であろう。ともかく太古に帰るのだという。こつこつと何かやっているところは、別の映画の腐海を研究する一室や歩く城の話の主人公の勉強机を想起させる。

 井戸に蛙(かわず)?姫が入り、海水が中にごく身近な効果音とともに井戸の中に入り、辺りが金色(黄色)になる。場面といい、線の数、デフォルメ具合といい何かすごかった。どうなるんだと展開を楽しみに感じた。一瞬、トトロの笑顔みたいになったのもおかしかった。人間になった金魚は、水の勢いとともに、ドッカーンと海上に飛び出し、少年のもとに向かう。ドキュメントで「本質の絵」が描けたといわれていた場面だった。

 赤い服の娘は、少年のもとに駆け付け、二人?は再会を果たす。以前の映画にもあったが、台風の日の夜の場面になるが、現代が加味されている。充電式の蛍光灯や発電機など。はちみつ入りのホットミルクを飲み、即席拉麺を食す。

 一見、展開は、起承転結でいえば、起転承結のような感じだ。大破壊の後、趣が変わるところは、「千尋」の展開にも似ていた。
 
 奇(く)し火現象のような場面の後、登場した海なる母は、綺麗な人だった。船より大きいのは、何か楽しかった。

 町は水没し、水面下には、古代魚が泳ぐ。何とか期に半分戻っている。水が濁っていないので、洗濯物などが水中でなびいたりしている。チャルメラが似合いそうな風景。

 二人は、蝋燭で進む舟で、辺りを回る。出食わした和舟の一家との挿話が入る。この小さい姫は、よく眠る。

 少年が、山上の東屋のところで、バケツの「ポニョ」をおばあちゃんに託す。斜めに走るので、その必死さは伝わった。古典のヒーローが華々しい活躍の後にお城に閉じ込められた姫を救い出すように少年は頑張った。

 試練の後に大団円。少年と父は握手。おばあちゃんたちも元気になった。海なる母が宣言し、平和は戻った。
楽しいエンドクレジットとともに物語は終わる。

 この金魚姫は、大いなるなにがしかの化身であるだろう。

 作品の構想を練る時、海辺の町に滞在し、漱石の本なども読まれていたという。NHKのドキュメントで、その作家性の一端をうかがえた。創作のもとにあるといわれる関連本「海底二万里」、ワルキューレの物語なども機会を見て読みたいと思った。

 絵画を解読するように、本質と現象とを読み解く楽しみ方もある。

 とりあえずは、公開一週間で、二回観たのだった。

posted by 青田猫三齋 at 13:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小連載つづき

「十三年寝たきりの人」
 「被爆以来」「寝たきりの人が、」土門の「知った限りでも、広島に三人いた。」

 そのうち「ふたりは、生活がたたないでいる」という。

 布団から顔を出しているアップの写真が印象的である。戸口に立つ孫娘さんの奥にもその姿がある。

 「自宅の裏」に「野菜売りがきたので、」「ツタさんは孫娘の妙子ちゃんをだいて」「見にいった」。

 「幸い家の陰になっていたので、二人とも熱線の直射照射によるやけどはまぬがれた。」

 「ツタさんの夫」、「妙子ちゃんのお母さん」は、「即死」。「お父さんは」「その前に外地で戦死していた。」

 「ツタさんはかつぎ屋になって働いたが、まもなく寝ついてしまった。」

 「放射線障害による再生不良性貧血とされている」が、「一度も入院加療はしていない。」

 「ただ近所の開業医が」「週」に「一度か二度、好意的に注射などをしてくれ」るという。

 「妙子ちゃんは新制中学へ進んだが、」「看護のため、ほとんど通学できなかった。」

 「広島大の女子学生有志六名が、」「バラックへ交替できて、」「勉強を助けてくれた。」

 「十七歳になる妙子ちゃん」「の顔の白さもやはり貧血性のものと思われる。」「ツタさんは知らないが、」「「本当は」「私のほうが早く死ぬかもしれないのです」と妙子ちゃんは言」う。

 「原爆被害者の会」「温品」氏からの手紙に二人の「近況が書いてあった。」

 「ノックして戸をあけながら、ふと妙子ちゃんも寝ているのに気がつきました。」

 「食事にもどったのか」と「尋ね」ると「からだの調子が悪くて一ヵ月ぐらい前から休みがち」だという。

 「年末ある同情者からもらったはずの毛布」も「先日金に困って売った」らしかった。

 また、「江波南町」「に住む中村杉松氏」もそのひとり。

 「氏は、ぼくたちを見ると、両手を横に突っぱって無理にも起きようとした。」

 「働くこともできないからだで、」「六人家族をかかえている」。

 「もとは漁師だった。力自慢で、ひとの二倍も働いたそうである。」

 「同愛会病院長」は「氏が入院していた当時の症状について」「語」る。

 「脳圧が高い。背骨から水を出す。頭が押えつけられるように、圧迫感を感ずると、冬でも頭から水をかぶ」る。

 「脳のおできが」「大きくも小さくもならないので、もっている」。

 「病因が分からないのと、本人自身も入院生活にあきてしまったので、結局、そのままほうってある。」

 「薬は何も飲んでいない。そして尿はいまでも血の色をしている。」

 「温品氏が見舞いに行くと、」「あんた米持ってきたか。おれは三日も飯を食っていない!」と氏を見るなり、叫んだという。

 写真には、「農家の納屋を改造した」家のその部屋に布団で寝ている氏をうちわで扇ぐ長男。祖母、娘さんたち家族が写っている。

 「寝たきりの父でも、こどもたちにはかけがえのない父であり、精神的支えでもあるだろう。」と土門は記す。

 「悲惨な被爆者の誰に会っても、病苦は訴えても、世を呪い、人を恨むような言葉は全然聞かれない。」「訪れてくる見ず知らずの人から、」「暖かい物を感じさせられているからではないだろうか……。」

 それは、心は病んでいないという意味だろうかと頁をめくる。
 
つづく
posted by 青田猫三齋 at 13:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月29日

「本日の更新」

 二ヶ月振りに更新。

 「世の中どこでどうなったか」はいまだに分からないが、時間を見て、自分なりに学んでいる。

 以前、楽しみにしていたCDの話を書いた。収録曲はどれもよかった。一曲目は、タイトルも素直な命名で、曲自体も最近のお気に入りだ。アルバム名にもなっている曲は、力強く、最後の旋律も心地よいものだった。
posted by 青田猫三齋 at 12:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小連載つづき

「胎児だった少年 梶山健二君の死」

 病院ベッドに横たわる少年、医者が脈を測り、家族が見守る。廊下で泣いている男の子。

 「廊下の真中に、たったひとり」「遊んでいた」「小さな男の子」が「そばの病室に逃げこ」む時、「ベッドにいる少年の顔がちらっと見えた。」

 「病室」に入り、その「父親だと直感し」たが、「沈痛な目」に「用件を切りだせなかった。」

 「十年間、一家は原爆のことなど夢にも考えずに暮らしてきた。」

 「長男」が「膝が「はしる」(痛い)と言い出し、「あっちこっちの病院を回」り、「原爆症と診断され」た。

 「病人の」「その目はぼくの「魂胆」を」「見抜いているように思えた。」

 「写真を撮って」と「細い、澄んだ声」で請われ、二、三枚の「記念写真」、「天井の千羽鶴や短冊」の写真を撮った。

 「あの目が看護婦のほうを向いた瞬間」「シャッターを一枚切った」。

 「翌朝、」「患者は」「息を引きとった。」

 「住職」が泣き、「居ならぶ人」も「みんな泣いた。」

 後日、父親から届いた「手紙を見て、」「また、広島へ行きたくなった。」

 「せめて」お「墓だけでも、まともな写真を撮りたいと思った」。


 「孤児たちの家  広島市戦災児育成所」

 門に掲げられた木製の表札の隣に郵便受けの口があり、子供が手出している。子供たちの日常の写真が数葉。

 「三人の小さい男の子が門の前で遊んでいた。」

 「「はなが出ているぞ」と、」「ふいてやる」と「よう、はなが出るんよ」と、その子は言った。」

 「入所児童は、」「計五十三名」。「職員は」、「計十一名であ」った。

 「所長」「自身も被爆者だった。」

 「二度目に行った時」、「静養室の窓から、」「外」「をしょんぼり眺めていた、コウジちゃんは」「上品な顔立ちをした」こどもだった。「しかしその色の白さも、実は「要注意」の腺病質のせいかもしれなかった。」

 「養子にもらいたいと言ってくれる」人もあったが、「病気で寝ている養母がどうしても手離したがらないと」いう。

 「入所児童」は、「いわば戦争と貧困の申し子である。」

 「こどもたちの生活は、」「普通の貧困家庭より、」恵まれていたが、「元気そうにあそんでいるこどもたちを永い間見ていると、思いなしか、こどもたちの胸に大きな穴がぽかっとあいているように見えてくるのだった。」

 「こどもたち」は、「一番、言いたいことは、」誰にも「言わずに、だまっている。」

 「育成所には職員の信条として「父となれ、母となれ」と書かれていた」が、「こどもたちの胸にあいた大きな穴は、」「努力し」ても「ついに埋めることはでき」ないと、「事務長も」「素直に認めていられた。」

 「お母さんのおの字も言わずに、じっと噛みしめている心の姿勢が、歩いているうしろ姿に、すわっているうしろ姿に自然とにじみ出るのではあるまいか」と土門は記す。

 
 「深い闇の世界で  盲児施設 広島明成園」

 通学のためか建物の前に集まる学生服姿の青年たち。食事を前にお祈りする園長先生や児童たち。双子の姿も。

 双子の少女、保母さんの写真が続く。

 「園長」「先生」は、「広島における盲児教育の先覚者である。」

 「就学年齢に達した盲児たちは、ここから毎日」「盲学校へ通学し」た。

 「定員三○名。」で撮影当時「男児一八名、女児一二名。」

 「盲目の双生児  保母 福吉絹子さんの手記」

 「一歳のとき、ハシカによる高熱のため」「失明」。「二歳のとき火災にあい」「肢体不自由とな」った。

 「父母は働きに出ていて留守」。「祖母が二児の養育をまかされている」という。
 
「満七歳」と聞いていたが、「いろいろの方面からみて二歳児程度と思われる。」

 「歩行訓練の第一歩。便所まで約四メートル歩くのに三分ぐらいかかる。途中で漏らしても、手をかさぬことにする。」

 「「虫でさえ自分の巣に帰ってくるのに、加江子ちゃんも由里子ちゃんもトイレへ行ったら、二十分も三十分も帰ってこん」と保母のひとりが嘆いたこともあった。」

 「生活」「遊び」「咀嚼」の「指導」。「盲児の特有性であるが、咽喉に引っかかって飲みこむことができ」ない。「なるべく細かく切って食べさせることにする。」

 「いつもからだを前後左右に動かしている」。「キィキィッ」と奇声をあげる。「動物園へ入れますよ」というとすぐやめる。しかしまたすぐはじめる。」

 「雨の降る日に傘をささずに外に出て、」「雨を取ってくれと泣く」。

 「盲学校」で「四時間教えた」「先生は「頭がぼーとなって、おっぽり出して逃げ出したくなった」と言っていた由。」

 「一緒におくと、勉強も何もできない」ので、「別々に離したら落着くかと思ったが、」「駄目」で、また仕方なく一緒にした。」

 土門に「よくなつ」き、「少しの間でもいないと、」「泣き声をあげて、見えぬ目でまわりを見まわすのだった。」

 この「可憐な双生児」は、「原爆」の「間接的な犠牲者」だと土門はいう。「戦争と貧困」の「しわ寄せされた象徴」ではあるまいかと。

 保母さんに手を引かれて歩く二人が印象的である。

つづく
posted by 青田猫三齋 at 12:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする